File NO.202 ルスツリゾートスキー場
1.ルスツリゾート発展の推移
@ 加森観光によるスキー場買収から発展への軌跡
1972年に埼玉県に本社を置く大和観光株式会社が尻別岳山麓の土地を購入し、後志・村観光協会の協力のもとに開発したのがルスツリゾートスキー場の前身である大和ルスツスキー場である。現在のスキー場でいうとWest. Mtと呼ばれる部分で5基のリフトと1基のロープトーが設置されたスキー場と、300名が収容できるボウリング場付き宿泊施設を営業していた中規模多機能型スキー場であった。立地の良さも手伝ってスキー場は好調な入り込みを記録し、9基の索道と12コースを持つ大規模スキー場へ発展した。しかしながら、大和観光が不動産投資に失敗して1978年に倒産してしまった。大和スキー場は現地子会社が継続しても営業を行っていたものの、親会社の倒産によって不安定な経営にならざるを得なかった。もし、大和ルスツスキー場が営業停止に追い込まれれば、スキー場から留寿都村へ入る固定資産税等の税収がなくなり、冬期には臨時従業員を含めて150名の雇用の場が消えてしまうなど、その影響が大きいため、村は大和ルスツスキー場を引き継ぐ企業を探し始めた。1981年に登別でくま牧場と登別温泉のケーブルカーを経営する地場の加森観光が買い取り、スキー場経営を引き継ぐことになった。加森観光は1981年からルスツ高原スキー場と名前を変え営業を開始したが、名称の変更以外は大和ルスツスキー場時代と大きな変化はなかった。
加森観光はスキー場だけではなく、遊園地、ゴルフ場、宿泊施設を持つ通年型のリゾートとする新しい経営戦略を採用し、開発を始める。100万都市である札幌、航空機を利用する観光客の降り立つ千歳、苫小牧や室蘭といった道内主要都市から1時間半程度のドライブで着くという、留寿都村の立地の良さに着目したようである。ルスツ高原スキー場へ衣替えした翌年から、加森観光は積極的な投資により、スキー場以外のリゾート施設の拡張を始めた。1982年にはテニスコートを造成、同時にゲーム機器をおいた屋内遊技場Big Boxを建設した。1983年には遊園地カントリーランドをオープンし、冬期はスキー場、それ以外の時期はテニスと遊園地という完全な通年営業の形態となった。遊園地やテーマパーク事業においては、リピーターの来園を増やすため、目新しい遊戯施設を増やしていく必要がある。そこで、閉鎖された遊園地や博覧会で使用されていた中古機材を新品の半値以下で購入し、ルスツの遊園地の施設を充実させる投資を抑えた。ルスツでは中古機材を購入することで、比較的頻繁に施設を更新していった。将来の入り込み客増加に備えて、1983年に3000台収容の大型駐車場も完備した。1986年には1億2千万円をかけて100mの長さのウオータースライダーを導入した。1988年には通年型リゾートとしては欠かすことのできない、18ホールのゴルフ場を完成させ、リゾートとしての陣容を整えていく。
宿泊施設に関しては、営業を引き継いだ時点で700名を収容できるホテル(本館)があったが、リゾートとしての拡張に合わせて宿泊施設を充実していった。1982年にはテニス客向けにコテージやログハウスも建設した。1983年には本館に宴会場を増築、1984年にはログハウスを新築した。コテージやログハウスの建設以外のリゾートには欠かせない宿泊施設に関しては、従来からの700名を収容する本館に加えて、総工費30億円をかけて建設された800名を収容できる新館(サウスウイング)が1987年にオープンした。ホテル内にはショッピング街、温泉の大浴場、温水プール、大会議室も設けられた。そして、1989年12月には増築の形で収容人員800名の新館ノースウイングが、80億円の投資の末に完成した。そこにはヨーロッパの街並みを想像させるカーニバルプラザという小売店舗とレストランを併設している。バブル経済のピークだったため、ホテルの予約を断るのが大変なほど盛況であった。客室のようなハードもフル稼動であったが、従業員もフル稼動で若い労働力を確保するのも大変であった。1990年にはホテルの増設が行われ、120室増えた。
リゾートしての魅力を高める一方、スキー場の拡張も同時に行っていった。1983年には4人乗りゴンドラを建設し、1985年にはコース増設を行った。1986年にはナイター設備を持ったコースの増設とリフトの新設を行う。ゲレンデの総面積は140ヘクタール程度までに拡張され、ゴンドラ1基、リフト10基を持つ大規模なスキー場へ拡張されていた。1987年に国道230号線を挟んで、それまで営業をしていたスキー場の向かいにある風防留山山麓に総投資額約50億円で43ヘクタールのゲレンデを造成し、ゴンドラ1基と4人乗りリフト1基を有するEAST. Mtスキー場をオープンした。1988年にEAST. Mtと並ぶように、ゴンドラ1基とペアーリフト2基を持つMt. Isolaスキー場をオープンした。1989年には6人乗りWest Mtにゴンドラを新設し、Mt. Isolaで4人乗りリフト1基とペアーリフト1基を持つ2コースが増設された。翌1990年には、スキー場のコース増設が行われ、4人乗りリフトを新設した。こうしたゲレンデの拡張により、スキー場の総面積は275ヘクタールに達し、国内でも有数の大規模スキー場になった。
加森観光のルスツリゾートにおける300億円程度の投資を行った拡大路線は、バブル経済の恩恵もあり、成功を収めた。当初は知名度の低さから道内の観光客が中心であったが、リゾートの拡張によって本州での知名度が上がり、1988年頃には道内と道外の観光客の比率は半々程度までになっていった。1988年には東京事務所を開設し、より多くの観光客を道外から呼び込もうとした。索道利用者数を見ると、1989年度に加森観光はニセコ高原開発を追い抜き、単一の索道経営企業では北海道一の輸送人員を誇るようになった。同社は一方で、ルスツリゾートを核として、札幌の無意根山、大滝村の白老岳、倶知安町のニセコアンヌプリ北東斜面をスキー場として開発し、一大リゾートとする大きな計画があったと推測できる。地理的に見てもルスツが中心になるため、ルスツリゾートの魅力を高め、宿泊施設を増強していったのではないか。

A バブル経済崩壊以降のリゾート拡張
バブル経済の生成期は、リゾート開発企業にとって資金調達と顧客獲得にとって絶好の追い風になり、また日本のレジャーブームもあいまって大規模な開発計画が立案された。加森観光もその例外ではなく、40億円程度の投資によって喜茂別町内に27ホールのゴルフ場の新設、同じく喜茂別町内に200億円をかけた高層ホテルの建設、総事業費150億円を投資して高層リゾートマンションの建設、ルスツリゾートの拡張が立案された。しかしながら、バブル経済の崩壊による景気後退は同社の計画にも影響を与え、喜茂別地区のホテル建設の中止など計画の縮小が行われた。それでも、既存のルスツリゾート地区を中心とした開発は着実に行われた。1993年には26階の収容人員1056名のルスツタワーホテル(新築)が総投資額200億円で完成し、同年にノースウイングには会議場がオープンした。1994年にはナイターゴルフ施設を完成させ、ゴルフ場の稼働率を高めるようにした。1996年には遊園地のカントリーランドをリニューアルし、レジャー施設の魅力を高めた。1998年にはルスツリゾートのゴルフ場において、総事業費45億円をかけて18ホールの増設工事に着工した。こうした冬期間以外の集客につながるレジャー施設の増強があったものの、通年の入り込みに占める冬期間の入り込みの比率はこの10年間で大きく低下しているわけではない。これはスキー場の拡張も同時期に行われていたからではないかと考える。
一方、スキー場も計画的に拡張を進めていった。1994年にはWest. Mtのリフトを4人乗りへ架け替えた。1995年には20億円を投資してMt. Isolaに8コース、4人乗り高速リフト、500人収納可能なレストランを新設し、34コース、総滑走距離は39kmとなった。1996年には12億円を使い、4人乗り高速リフトと2つの初心者向け1000mのコースを新設して総滑走距離は41kmへ、そしてゴンドラ2基を改良した。1997年には8億円を投じてルスツリゾート本館とサウスウイングを結ぶモノレール建設に着手した。また、それ以外に総事業費22億円で遊園地の遊具施設の増設とスキーリフトの2基増設なども行った。計画的なスキー場を拡張し、現在(1999/2000年のシーズン)では全37コース、総滑走距離42km、ゴンドラ4基、リフト13基を持つ、「HOKKAIDO No.1スキーリゾート」と自称するにふさわしい大規模スキー場へ変身した。加森観光がルスツリゾートのスキー場に投資し、拡大戦略を採用した理由として、札幌とニセコのスキー場集積地域に挟まれているためその存在を強くアピールする必要性があったこと、滞在型リゾートを目指すためにスキー場の魅力を高める必要があったこと、などが考えられる。
加森観光はルスツリゾートを拡張し続ける一方、景気の低迷とスキー場業界における不況により、十勝のサホロリゾートの経営が悪化し、また、1998年5月にアルファリゾート・トマムスキー場を中心としたトマムリゾートのホテルの4割を所有するアルファリゾートが経営破綻しするという状況に陥った。これらの事件は加森観光に対しても、2社の事業に関する運営受託という形で影響を与えた。サホロリゾートは、西武セゾングループのディベロッパーである西洋環境開発が中心となってスキーリゾート開発し、運営を100%の子会社であるサホロリゾートが行っていた。クラブメッドを日本で初めて展開するなど新しい業態を導入したが、親会社の経営再建の一環から赤字のサホロリゾートを整理することを前提に、1997年に加森観光と業務提携した。サホロリゾートは降雪が少なく、また、札幌から遠いこともあり立地的な厳しさから累積赤字が解消できないでいた。加森観光とサホロリゾートの業務提携の内容としては、@商品の共同開発と相互販売、A共通リフト券の発行と営業・宣伝活動の統合、B資材の共同仕入れによるコスト削減、C施設要因の融通による人員合理化などで、加森観光からサホロリゾートへ役員2名を派遣することになった。1999年にこの業務提携は、加森観光がサホロリゾートの運営を全面的に受託するというアウトソーシングの形態へ発展している。1997年にアルファリゾート・トマムの事業低迷に悩む関兵精麦から、加森観光は運営の受託を受けた。アルファリゾート・トマムは2社が所有しており、関兵精麦が全施設の6割を、アルファコーポレーションが残り4割を所有している。加森観光はリゾートマネジメントという子会社を設立し、アルファリゾート・トマムの6割部分の運営を行っていくことになった。ところが、1998年にはアルファリゾート・トマムの4割部分を所有するアルファコーポレーションが倒産し、同社が所有するリゾート内の施設が閉鎖に追い込まれた。同年末には地元占冠村の強い要請を受けて、加森観光の子会社リゾートマネジメントがアルファコーポレーションの施設運営を受託し営業を再開した。運営を受託した裏には、加森観光が提案した複雑な仕組みが隠されている。まず、倒産したアルファコーポレーションから占冠村が施設を5億円で買い取り、その買い取り資金を加森観光が占冠村に寄付する。代わりに占冠村はその施設を加森観光に運営を委託する。ただし事業からの収益はすべて加森観光が受け取る、という方式であった。加森観光が直接購入すれば、施設購入に関わる税金と前所有者の滞納分固定資産税といった税金だけでも20億円程度支払わなくてはならないところを、占冠村が代わりに購入することで加森観光は支払わなくてすむ。すなわち、加森観光は5億円を占冠村に寄付することで、20億円の節税を行い、施設運営の利益を全部獲得できる恩恵を得る。これにより、加森観光はアルファリゾート・トマムの施設すべてを運営することになった。加森観光はルスツリゾートで蓄積したリゾート経営の資源や能力を活用できることと、3つのリゾートをネットワーク化することで相乗効果を発生させることが可能になった。これら道東のリゾートの運営は、ルスツリゾートにも好影響を及ぼすと考えられる。
2.スキー場の分析
(図表4) 「ルスツリゾートスキー場のコース図」

ルスツリゾートスキー場は、札幌や新千歳空港から車で90分程度の距離である。交通手段は鉄道がないため、車かバスしかない。札幌から来るとなると降雪量が多い中山峠を通らなくてはならず、天気が悪い時はやっかいである。スキー場としての評価に関して、ルスツリゾートスキー場は規模やコースの多様性で高い評価を与えられる(図表5)。雪の量と質はニセコ国際ひらふスキー場やキロロスノーワールドと比較すれば劣るものの、北海道の中でも水準以上と評価する。ゲレンデの整備もしっかりなされている一方、圧雪が入らないコースもいくつかあり、利用客のニーズの多様化に対応している。策道施設はゴンドラやフード付きの高速4人乗りリフトも多く、寒い時期には快適である。ゲレンデ内の休憩と飲食の施設は要所にあり、利用客の利便性を確保している。問題があるとすれば、WEST. MtサイドとEAST. Mt・Mt. Isolaサイドが国道で分断されているため、ゴンドラがあるにせよつながりが悪く、そして、自称しているほど大きなスキー場という印象があまりない、ということである。これは、WEST. Mtサイドを拡張できない立地上の問題でしかたないとはいえる。それ以外の策道やコースのつながりはよく、気持ちよく滑走できる。策道1席あたりの索道利用客数は年間10万2000人(1997年度)と、効率性と待ち時間のバランスはまずまずと思われる。しかしながら、一部の策道施設、特にEast Mt.やMt. Isolaの入り口となるイーストゴンドラ2号線の混雑が激しく、ゴンドラ待ちが長く、不満に思っている利用客は多いのではないであろうか。また、短期間で規模を拡張して減価償却が大きいせいか、マーケティング上の価格戦略なのか、リフト料金が高いのは利用者から不満を招くかもしれない。一方、従業員の接客サービスも良く、ホテルをも経営する加森観光だけのことはある。食事に関しては、比較的高目のレストランから安価なスナックレストランまで取り揃え、若者からスキー場での食事は高い、と不満が出ないようになっている。トイレやロッカー施設もスキー場としては高いレベルにある。その他の付加サービスとして有料の託児所がある。このあたりはスキー場をサービス産業として捉えており、高く評価できる。また、人手の多い時期には独自のDJプログラムを行っており、利用客を楽しませようとする姿勢は、レジャー産業を多くてがける加森観光らしいと思う。
(図表5) 「ルスツリゾートスキー場とニセコ地域3スキー場の索道利用客数の推移」

ルスツリゾートスキー場の索道利用者数は、経営主体が大和観光から加森観光へ変わった直後に減少しているものの、それ以外の時期は増加傾向にある(図表5)。特にバブル経済時期に、策道利用者数を大幅に増加させている。これは好景気の恩恵もあるが、加森観光がルスツリゾートスキー場へ積極的に投資をし、スキー場の魅力を高めたからであろう。毎シーズン新しいコースなどを造成することで、利用客のリピート来場を促してきたのである。積極的な投資によるスキー場拡張は、北海道NO.1のスキー場というブランドを確立し、本州方面からの観光客集客の武器となっている一面もある。本州からの観光客は、何度も来道してスキーやスノーボードを楽しめるわけではない。そうなると、北海道に来たら北海道一のスキー場で滑りたいと考えるのが人情であり、旅行会社の企画するツアーでルスツリゾートスキー場がはずせなくなるのである。積極的投資によるスキー場およびリゾートの拡大戦略はリスクが大きく、失敗事例も多い。それではなぜルスツリゾートはリスキーな成長戦略を取り、しかもバブル経済崩壊という外部環境の急激な悪化を生き残ってきたのであろうか。まず、加森観光がオーナー企業であり、加森公人という優秀な経営者の強力なリーダーシップによって、的確な経営戦略の下に経営を行ってきたことがあげられる。次に、ルスツリゾートを経営する加森観光のリスクを低減する経営である。ルスツリゾートスキー場はもともと経営破綻した大和観光から安く買収したスキー場で、0からスタートした他のスキー場のような多額の投資をせずにスキー場事業を始められた。また、キャッシュフローを重視した投資を行い、スキー場への投資も段階を踏んで行ってきた。こうしたことで、加森観光はスキーリゾート事業への投資を抑制し、投資に対するリスクを低減してきたのである。第三に、バブル経済崩壊やスキー離れなどでスキー場業界不況の時期もスキー場への投資を継続して行い、スキー場の魅力を高めてきた、逆張りの戦略が成功の理由としてあげられる。他のスキー場が投資を控えていたのに対して、スキー場の魅力を更新し続けたルスツリゾートスキー場は相対的な競争優位を向上したのである。
第四に、競争ターゲットを明確にし、的確な競争戦略を実行してきたことであろう。ルスツリゾートが競争ターゲットにしていたのは、北海道の老舗で全国に認知されるブランドをいち早く確立したニセコアンヌプリの3スキー場、中でもニセコひらふ国際スキー場であったと思われる。1983年度のルスツリゾートスキー場の索道利用客はニセコアンヌプリの3スキー場の約1割にすぎなかった。しかしながら、それが現在では7割を超えて、ルスツリゾートスキー場の相対的競争優位は格段に高まっている。立地的に見て、スキーヤーやスノーボーダーが車で札幌や新千歳空港からニセコへ行こうとすれば、ルスツスキー場の前の国道か、その近辺を通過していくことになる。ルスツスキー場がニセコアンヌプリの3スキー場より魅力的ならば、ニセコへ行こうとする道内スキーヤーやスノーボーダーの何割かはルスツを選ぶであろう。また、観光ツアーも距離的に近いルスツリゾートの方がスケジュールにも余裕ができる。ルスツリゾートスキー場はニセコをターゲットにして、ニセコの顧客を奪えば確実に成長できるのである。加森観光はスキー場への投資だけではなく、ホテルを中心とした他の施設への投資を行うことでルスツリゾート全体の総合的な魅力を高め、多数の民間企業や自営業者で構成されリゾート地域全体として競争優位構築の戦略を実行できないリゾート集積であるニセコに対して、加森公人社長の強力なリーダーシップによって競争地位を向上させてきたのである。
順調に成功してきたルスツリゾートスキー場の今後に、不安がないわけではない。まず、地形上の制約から、これ以上のスキー場拡張が困難であること。そのため、リピート来場を促すことが可能となる、新しいコースの造成などができないかもしれないのである。次にルスツリゾートスキー場を経営する加森観光の問題である。加森観光はルスツリゾートスキー場以外に、アルファリゾート・トマムスキー場とサホロ・リゾートを事業受託の形で経営を行っていくことになっている。事業を受託するのあたり経営幹部を派遣したり、受託とはいっても加森観光が施設への投資を行うこともある。アルファリゾート・トマムスキー場とサホロ・リゾート共にてこ入れが早急に必要であり、ルスツリゾート場への経営資源の集中が難しくなる。また、加森観光はシティー・ホテル事業も行っており、昨年新しいホテルを激性といわれる札幌でオープンした。もし、こうした事業の経営が安定しなかったら、ルスツリゾートで稼いだ利益をルスツリゾートへ再投資せず、他の事業へ投資することになるかもしれない。それがこれまでのルスツリゾート成功の戦略を崩すことになるかもしれないのである。

3章 ルスツリゾートと地域社会との関係
ルスツリゾートの成長は、地域社会に大きな貢献を果たしている。まず、リゾートでの直接雇用は、大和ルスツスキー場時代は冬期150名、夏期30名の体制で営業していた。加森観光が経営することになった以降リゾートは拡大し、冬期754名、夏期517名(いずれも1997年)の従業員を抱えるまでになっている。そのうち、約65%が地元留寿都村民で、残りは近隣市町村からの従業員である。留寿都村に雇用の場が出来ても、人口は1980年の2,079人から1997年の2,279人(いずれも住民基本台帳の数値)と1割弱しか増加していない。しかしながら、村民税が1980年の3,200万円から1997年には8,100万円と2.5倍へ増加している。これは、以前から留寿都村に住む住民を臨時雇用し、農業従事者を主とする住民の所得が増加しているからと推測できる。人口面ではルスツリゾートの成長は留寿都村へ大きな恩恵をもたらさなかったが、経済面での効果が非常に大きかった。留寿都村の税収は、1980年度の8,400万円から1997年には4億7,500万円と5.6倍にまで増加している。特に大きいのが固定資産税で、ルスツリゾートを中心にホテル、ペンション、マンションが新築された結果、1980年度の3,200万円から1997年度の3億5,300万円と10倍以上にまで拡大した。こうした目に見える恩恵もあれば、目にみえない恩恵も指摘できよう。例えば、ルスツという知名度が全国的に広がりイメージアップとなった、観光客の入り込みによる交流人口の増加が地域産業の振興につながった、若者の新住民が増えたことによる村の活性化、などがあげられる。
(図表6) 「留寿都村冬季観光客入り込みの推移」

ルスツリゾートは、リゾート開発のもっともうまくいった成功事例の一つであろう。ルスツリゾート以外に観光資源があまりない留寿都村の観光客の入り込み数を見てみると(図表6)、1988年度からのデータしかないので限定的なことしか分からないものの、1998年度の日帰り客は1988年度の50%増加、1998年度の宿泊客は1988年度の126%の増加となっている。北方圏センターによる1989年の住民アンケート調査によれば、留寿都村の調査回答者207人のうち、知名度の向上、経済振興、雇用機会の拡大、税収の増大、人口流出に関して6〜7割程度の人がルスツリゾートを積極的に評価した。地域社会にも受け入れられていると考えられる。反面、自然環境の破壊や地域住民不在の開発などへの不満も聞かれ、加森観光と地域社会の調和は完全といえず、まだまだ努力する必要があろう。加森観光の優秀な経営能力と共に、コミュニケーションはしっかり取りながらも地方自治体が過度にリゾート経営へ干渉しなかったことも成功した理由の一つではないかと考える。(1998年10月調査)