ボラナビ倶楽部を起業し、代表を務める森田麻美子氏は1972年札幌市に生まれ、北海道大学経済学部を卒業した。北大在学中に1年間、アメリカオレゴン州の大学へ留学している。TV局の仕事に関心があった森田氏は、大学卒業と同時にNHK札幌放送局の契約社員になり、「イブニングネットワーク北海道」や「おはよう北海道」のキャスターを務めた。NHK勤務時代にNew York Careという、ボランティア求人募集のフリーペーパーを運営しているNPO団体に関して新聞で知り、1.5万人の人が購読し、ニューヨーク市民が気軽にボランティアをしていることに驚いた。1998年にNHK札幌放送局を辞め、次の道を模索していた森田氏に、番組で知り合った、車椅子の女性からボランティア活動へ誘われた。社会勉強のつもりでボランティア活動の現場へ足を踏み入れ、ボランティア活動の意義や生き甲斐、多様な人たちと交流できる楽しさを実感した。その一方で、ボランティアの人材を確保するため、ビラを作成し、配布しながら活動を続けていく大変さを知った。社会的に意義があるボランティア活動を支援したい気持ちに駆られた森田氏は、前述のNew York Careの新聞記事を思い出した。当時、日本ではボランティア団体が個別に会員向けの会誌を発行し、ボランティアを募集ているものの、米国のようなボランティア情報のフリーペーパーがなかった。そこに社会的ニーズを見いだし、森田氏は日本初のボランティアや市民活動の支援の冊子を制作する事業アイディアに行き着いた。ただし、この段階では綿密な事業プランではなく、まだ漠然としたものであった。
森田氏はボランティア活動を通じて知り合った人たちに声をかけ、森田氏の事業アイディアに賛同した大学生8名、社会人2名が集まった。以前、中心的ボランティアの担い手は主婦や高齢者であったが、阪神淡路大震災以降、若者のボランティアへの関心が高まっていたのも追い風になった。すぐさま、森田氏と若者たちは3ヶ月後には、日本初のボランティア情報誌を発行することにし、冊子を発行する主体として任意団体を作ることにした。集まった若者からの提案で、名前にはボランティアをナビゲーションしたい、という意味が込められ、「ボラナビ倶楽部」となった。1998年5月にボラナビ倶楽部は発足した。ボラナビ倶楽部発足のため声をかけた人の中から、北海道NPOサポートセンターの小林事務局長を紹介され、北海道NPOサポートセンター(札幌市中央区)に同居して活動拠点を確保した。家賃は1ヶ月1万円で、デスクと電話1本でスタートした。ボラナビ倶楽部を立ち上げたものの、ボランティアのためのフリーペーパー発行は、森田氏や他のメンバーにも出版事業の経験はなく、情報収集、編集、冊子の配布方法、発行資金の調達など様々な課題が山積していた。そうした課題を森田氏とボラナビ倶楽部のメンバーはアイディアを出し合って解決し、一歩一歩前進していった。例えば、情報収集は札幌市各区の社会福祉協議会へ行き、ボランティア募集の張り紙を見て、募集しているボランティア団体を訪れ、フリーペーパーへのボランティア求人募集情報の掲載を依頼した。冊子のレイアウトなどは友人の編集者がひな形を作ってくれた。雑誌を発行するための資金は、森田氏は前職であるNHK時代の人脈は使わず、飛び込み営業で出稿先を見つけていった。無名の任意団体が日本で初となるボランティア情報雑誌を作ると言っても、企業からは理解や支援が得られなかった。しかしながら、森田氏の情熱で資金提供者もNPOに理解がある個人や団体、企業と少しずつ集まっていった。情報冊子は若い人たちに気軽に読んでもらうため、ボラナビ倶楽部に参加している大学生が中心に交渉に当たり、大学へ置くことはすぐに決まった。その一方で、社会人からは配布先が大学だと入手しにくい、という声が聞かれ、大学以外の配布先を確保することになった。しかしながら、見本誌なども作っていなかったので、情報冊子を置いてくれる企業や流通チェーン店がなかなか確保できなかった。既に森田氏を信用し、広告を賛助金として拠出してくれている企業、集まってくれた仲間のためにも、雑誌の配布場所を確保しなければならなかった。そこで、森田氏は一計を案じ、ある流通チェーン会社へアポを取らず、受付でボラナビ倶楽部がやりたいことを叫び、社員の気を引いた。しかたなく対応した社員へ、森田氏の使命感とビジョンを熱く語った。するとその社員は、何部置けばよいのか、と問いかけ、最初の配布先が決定した。その流通チェーン店においてもらうことが決まってから、その店で配布してもらえるという実績を基に他の企業への営業もやりやすくなり、少しずつ置いてもらえる店が増えていった。
1998年8月、日本初のボランティア・市民活動の情報冊子「ボラナビ」が創刊された。発行部数は1万5,000部で、札幌市内のスーパー、書店、大学、銀行など350箇所で無料配布された。冊子の印刷費は20万円弱かかったが、NPO関係者の寄付や飛び込み営業で獲得した企業からの寄付によって賄われた。また、16ページの冊子の編集作業はメンバーやメンバーの友人がボランティアで行ってくれた。ある団体はイベントの運営スタッフを「ボラナビ」創刊号で募集し、必要だったボランティアを集めることができ、「ボラナビ」の効果が証明された。創刊号の好評に自信を持った森田氏は、第2号の発行部数を1万部増やし、2.5万部とした。
「ボラナビ」が地域へ浸透していったが、ボラナビを支えていたのはボランティアのスタッフは10名、有給の専従スタッフは森田氏のみの状態であった。しかしながら、「ボラナビ」を通じてイラストレーターがメンバーになり、「ボラナビ」を取材にきた雑誌記者が雑誌社退職後にボラナビ倶楽部へ参加し、ボラナビ倶楽部を訪れた情報技術に長けた人にボラナビ倶楽部のホームページ作成を任せるなど、組織が「ボラナビ」というメディアを介して拡大し、「ボラナビ」を核とする人と人、組織と組織のネットワークも広がっていった。ネットワークが広がることで、「ボラナビ」の情報量も増え、「ボラナビ」の社会的影響力も強くなっていった。1999年3月には、「ボラナビ」を通じてボランティアや市民活動に関心がある人たちのための勉強会と出会いの場、「ボラナビの集い」を開催し始めた。また、ボラナビ倶楽部の活動に感銘を受けた名古屋のボランティア団体が、「ボラナビ」を参考にして、名古屋で「ボラみみ」を1999年に発行し始めた。
ボラナビ倶楽部の台所は決して恵まれたものではなく、メンバーのボランティアと森田氏が私財を提供しながらなんとか維持されていた。しかしながら、任意団体として事業を維持するには、「ボラナビ」の社会的意義が高くなりすぎ、ボラナビ倶楽部の組織が大きくなりすぎ、代表の森田氏の負担も重くなりすぎていた。また、2000年には日本財団から助成事業を行ったり、行政との協働による事業の話も出てきた。後述する「ねっとボ金」の収納代行を行うコンビニとの契約のため、2001年に入り特定非営利活動法人の法人格を取得することになった。5月に特定非営利活動法人の認証を受け、登記を行い、ボラナビ倶楽部は組織として新しい成長ステージへ進んだ。
2001年9月には文部科学省から委嘱を受け、ボランティアへ関心を持つ100名の希望者が10の団体でボランティアを体験できる、「ボランティア活動よくばり体験事業」を実施し(事業総額266万円)、成功を収めた。また、ボランティア活動やNPOを維持するための資金が不足するという団体のニーズに応えるため、米国で行われていたインターネットを通じてNPOへ寄付するシステムを参考にし、9月から「ねっとボ金」をインターネット上で運用し始めた。ボラナビ倶楽部の活躍が社会から評価され、その名が全国的に知られるようになった。2002年3月には、ボラナビ倶楽部が入っていたビルの取り壊しの噂から、事務所を札幌通運ビルへ移した。一方、森田氏個人は4月からテレビ北海道の「経済ナビ」のキャスターを1年間務めた。
一方、ボラナビ倶楽部は2002年に経済産業省の「市民活性化モデル事業」へ応募し、その先駆的なビジネスモデルが評価され、採択された。経済産業省から補助金932万円を受け取り、12月から「ごちボラ」という北海道の特産品の物販とNPOへの寄付を両立させたシステムを運用し始めた。2003年3月にはプロポーザル方式で北海道庁から受託した事業(事業総額824万円)、市民活動の情報冊子「北の人々の輪」を発行とインターネット上での市民活動情報の発信も行っている。また、5月からは「後期パートナーシップ・プロジェクト推進に係る住民活力導入促進事業」もプロポーザル方式で受託に成功し(事業総額1,598万円)、ボラナビ倶楽部の活躍の場を広げている。
(2003年11月森田代表理事よりヒヤリング)
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