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起業から成長基盤の確立
株式会社サークル鉄工の歴史は、1949年1月に農業機械を製造する工場で事務職員をしていた少覚納氏が個人事業で鎌や鍬を製造することから始まる。資金も技術もなかったものの、元来、起業意欲が高かったため安定した職場を離れ、4人の従業員と共に滝川市大町の小さな工場からのスタートであった。起業から2年後の1951年に、少覚氏は売上を増やすために暖房部を開設する。鎌や鍬といった鉄製品を加工する技術を応用し、風呂釜、ペチカ、釜戸を設計、製造、施工、販売するようになった。いずれの商品も独自のアイディアを取り入れ、人気を博した。また、少覚社長は親戚の北海道大学卒業の甥と共に木の苗を移植する機械の開発生産し、全国の営林署へ納入することで商売が拡大して売上高も2億円を超した。そこで、個人事業では限界が見えてきたため、1958年2月に株式会社サークル鉄工場を資本金155万円で設立した。社名のサークルには、池に投げ込まれた石がもたらしていく輪の無限の広がりを会社の無限の成長と重ね合わせ、そして、従業員の輪と和を大切にしたい、という少覚社長の理念が込められている。会社の規模が大きくなった今でもこの理念は組織文化として継承され、家族的な組織風土を維持している。1960年には建装課を開設して、暖房器具生産のノウハウを活かして、軽量シャッターやアルミサッシなどの建築金物と、建物の設計施工を手がけるようになった。顧客は農協などが中心であったようである。 1960年代の前半、日本甜菜製糖がビートをペーパーポット方式で苗を早期育成する農法を開発した。このペーパーポット方式により、雪解けの遅い北海道においてビートの生産量を大幅に改善することになる。しかしながら、ペーパーポットに種を蒔き、そこで育成されたビートの苗を移植しなくてはならず、その手間が農家に余計な手間をかけることになった。ペーパーポット方式の欠点を克服すれば北海道のビート生産量を増加させられると考えた北海道庁の職員は、木の苗の移植機を生産している知り合いの少覚納社長へ相談した。そこで、1962年からサークル鉄工は自社で生産していた木の苗の移植機を改良し、ビートの移植機械を開発し始めた。そして、翌1963年3月、日本で初めてのビート苗人力供給式移植機による移植実験が成功を収めた。1964年から本格的に販売を開始し、ビートの高い生産量と農作業効率から移植機は大ヒットとなり、サークル鉄工場の名前は全道に広まることになった。日本甜菜製糖の新しい農法とサークル鉄工場のビート移植機は新しい市場を創造し、この市場で独占的な地位を築くことになった。 1963年4月、以前から生産、販売していた暖房器具を発展させ、セントラルヒーティングをシステム化し、設備業界へ本格的に参入した。農機具のビジネスとこうした設備器具のビジネスは、技術や営業面でのシナジーが少ないが、冬場に生産が集中し、春先に需要が集中する農機具のビジネスと、夏場に生産が集中し、秋に需要が集中する暖房器具のビジネスは、工場稼働の平準化と資金の融通というメリットがあった。また、農機具市場は農産物の生産量による変動が激しく、農業とあまり関連性のない多角化事業を持つことによって、サークル鉄工の売上や利益の変動リスクを小さくするメリットも大きかった。これが株式会社化された以降のサークル鉄工が赤字決算になっていない大きな理由である。 ビート移植機の大ヒットで大町の工場が手狭になり、1967年12月、滝川市泉町に造成された工業団地に工場を建設し、農業機械部の製造・技術部門を移転した。ライン化された生産性の高い新工場であった。この新工場の稼働により、ヒット商品のビート移植機の大量生産が可能になった。新工場の建設で会社の資産も増えたので、1968年、自己資本を充実させるために、資本金を1,000万円へ増資した。増資の引き受けは少覚社長、社長の親族、古くからの従業員などであった。1969年3月には札幌出張所を開設し、北海道最大の都市札幌で冷暖房や給排水の設備の設計施工を積極的に受注する体制を整えた。また、同じ年に、少覚納社長の息子で東洋工業の設計技術者であった三千宏氏がサークル鉄工場へ入社した。先進的な自動車業界でエンジニアとして働いていた少覚三千宏氏の入社は、同社の開発力と技術力を大幅に引き上げることになった。翌1970年に、本社機能と暖房部を農業機具部門のある泉町の工業団地へ移転、統合した。1972年にはビート移植機に使われている「苗分離機」で特許を取得し、独占している市場への他社の参入を防ぐ障壁を築いた。こうした特許による参入障壁を構築する一方で、地域の農業に適した特殊な製品と手厚いアフターサービスによって顧客との密接な関係を構築し、大手農機具メーカーを寄せ付けず、独占的競争地位を維持し続けた。1973年3月に社名をサークル鉄工場から、呼びやすいサークル鉄工へ変更した。会社の規模が拡大していく中で組織構造も変更し、1975年に農業機械部の組織変更や、施設課と建装課を合併して施設課になり、ビニールハウス、シャッター、一般建築の設計施工を行う事業を強化した。1977年には暖房部と施設課が合併し、農業機械部と共にサークル鉄工の二本柱になった。
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絶対的な競争優位の確立 ビジネスが順調に拡大する中で、資金需要も増えていった。サークル鉄工は主に間接金融に頼っていたが、1974年12月には、自己資本充実のため、資本金を2,100万円へ、その後、1975年に3,200万円、1977年に4,700万円へ立て続けに増資した。増資の引き受けは、金融機関などではなく、会社の経営陣、従業員、少覚社長一族であった。従業員の中に株主を作ることは、従業員の和を尊重する会社であることを願う少覚社長の価値観に沿ったもので、仕事に対する動機付けと、会社に対する一体感を醸成するものである。こうした自己資本を基に、1979年に本格的な組み立て工場と大型製品倉庫を建設し、生産の拡大に備えた。そして、1980年に通産省の外郭団体である東京中小企業投資育成会社から出資の打診があり、サークル鉄工は初めて完全な外部者から出資を受け入れることになった。東京中小企業投資育成会社からの4,500万円程度の出資受け入れは自己資本充実の目的もあるが、それ以外に外部者を受け入れることで経営を近代化すること、情報の入手をしやすくすること、信用を増すことなどの目的を満たすものであった。この年には本社の新築社屋も落成している。そして、1981年には東京中小企業投資育成会社が再度、2,165万円出資をし、資本金は1億4,250万円にまで増加した。 1981年2月の株主総会にて、少覚納社長が会長へ退き、少覚三千宏専務取締役が代表取締役社長へ昇格する人事を決定した。少覚三千宏社長は、入社以来同社の研究開発部門のリーダーとして活躍する一方、父親の少覚会長から帝王学を学び経営者としての能力を磨いてきた。社長職を息子に譲った後の少覚会長は会社経営には口を挟まず、地元滝川市の経済界の公職を勤めたり、趣味の書道を楽しむ生活であった。帝王学を学んだものの経営者としての経験が浅く、むしろ最高技術執行責任者(Chief
Technology
Office)としての能力に秀でた少覚社長を補佐したのは、会社のバックオフィスを支えてきた深澤励専務であった。少覚社長がサークル鉄工の新しいリーダーになり変化したことは、技術力を持続的競争優位の源泉にする研究開発重視の経営戦略を鮮明にしたことである。1982年には中小企業として早期にコンピュータと溶接ロボット2台導入予定を導入し、生産性の改善へつなげようとしていた。溶接ロボット導入で浮いた人材は製品開発部門へ移動させ、研究開発力を高めた。また、1986年には当時珍しかったCAD(Computer
Aided
Design)を導入し、一方で既存の設計器具を廃止する荒治療を行い、設計面での効率化を図った。研究、開発、設計を強化する一方で、製造技術がそれらに追いつかなければ顧客に受け入れられる品質を維持できない。そこで、1985年、当時もてはやされていたQCサークル活動を開始し、製造部門における改善を行っていた。QCサークル活動はサークル鉄工に根付き、現在も継続されて行われており、同社の経営全体の品質改善に貢献している。 研究開発型企業にとって大きな悩みは、技術の優位を維持し続けることである。特にビート移植機の市場ではサークル鉄工が市場を独占し、価格が高止まりしていた。また、農業機械業界が需要の後退から、同社の技術を模倣し、低価格を売り物にした農業機械メーカーの新規参入を招いてしまった。1982年にサークル鉄工が特許や実用新案を得ていた苗分離に関する技術を盗用し、製品を販売していた札幌歯車製作所と同社の子会社である札幌農機製作所に対して特許侵害などを理由に、販売差し止めの訴訟を行った。あまり大きくない北海道の農機具市場で、こうした問題を裁判で争うことは珍しかったようであるが、サークル鉄工にとって技術が競争優位の源泉であるため、断固たる措置でそれを守ろうとしたのであろう。反対に札幌農機製作所から特許庁に対してサークル鉄工の分離器に関して特許無効の申請がなされたが、札幌高等裁判所の判決でサークル鉄工の勝訴に終わった。サークル鉄工は既存製品の技術を特許で守る一方、新製品開発を積極的に行っていった。1983年12月に「たくぎんどさんこ技術開発プラン」に認定されたことで、北海道拓殖銀行からビート移植用省力機械開発ために長期プライムレートを下回る優遇金利で資金を借りることに成功した。その成果は1984年春に新製品となってもたらされた。ビートの不良株を除去し、畑の空いた部分をセンサーで感知し、植え付け間隔を自動的に狭める移植機の販売を開始した。新型移植機は従来型の6倍の生産性を持ち、ビート移植に携わる人手を20人から3人へ減らすことが可能になった。この新型機は社長が開発チームを直接指導して開発したもので、大幅な高性能化が人気を呼び、3年間で2000台を売るヒット商品になった。1987年8月、社団法人北海道中小企業振興基金協会から高性能ビート移植機の試作のために492万6,000円の助成を得て、いっそうの高性能機の開発を進めた。 農業は地域ごとに手法が異なるものの、農業機械は多少の改良をすれば国際商品としてグローバル市場へ販売は可能である。ビートは世界16カ国で栽培されており、生産量は年間3億トン弱である。サークル鉄工は総合商社、ビートの新しい栽培方法を開発した日本甜菜製糖と共同で、1974年から海外市場の開拓を行った。日本甜菜製糖が甜菜の栽培指導を行い、サークル鉄工がビート移植機の使用方法を教え、総合商社が実際の輸出を担当する形である。しかしながら、海外では甜菜の新しい栽培方法が浸透せず、売上はサンプル輸出程度であったため、なかなか伸びなかった。それでも海外進出を始めてから10年後の1984年度は北米、南米、北欧、中国、イランなど13カ国へ輸出し、輸出売上高は1億円に達していた。1987年にはソ連へ輸出しようとしたが、サークル鉄工の精密な機械がソ連のような国の農業には合わなかったのか、農産物の増産に結びつかず、結局うまくかなかった。欧州へはベルギーのアグリプラント社を代理店にして、既に西独、英国、フランス、オランダへ数千万円規模で輸出をしていたが、1990年10月、スペイン市場への進出を決定した。スペインの苗移植機の市場規模は日本の数倍と見られ、翌年春から移植機のサンプル出荷と技術者を派遣することにした。1992年からアグリプラント社を通じて本格的にスペインへも輸出し始めた。サークル鉄工がこうした国際戦略を進める背景には、日本の農業機械市場が縮小傾向にあるからだ。ビート移植機の需要は限られており、より高付加価値の新製品を発売しても買い換え需要が中心で、企業が大きな成長を遂げるためには多角化か、市場を海外に広げて行くしかないのである。幸いサークル鉄工は、世界市場でもトップクラスの性能のビート移植機を開発し、生産する能力を持っており、まず、世界で勝負を賭けたのである。 一方、ビート移植機以外の農業機械への製品多角化も積極的に進めており、1991年2月、光センサーやマイコンを搭載したタマネギ用苗移植機OTP-4を350万円で発売した。移植作業にこれまで20人を必要としていたが4〜5人で行え、大幅に省力化できる。これまで農作業の自動化が遅れ、高齢化や人手不足に悩むタマネギ農家は季節労働者を雇って対応していただけに、道内だけで6,000台の需要を見込んだ。しかしながら、タマネギ用移植機械の市場は既に先発メーカーによって支配されており、ビート移植機ではNo.1の同社も後発メーカーであり、市場を簡単には開拓できなかった。1993年1月、新しい散布機構とマイクロコンピュータ制御で肥料消費を1割以上減らす精密施肥機CFC-4を、本体価格90万円で本格的に販売開始した。本体価格90万円。1991年にサンプル出荷し、優良農業機械施設等開発改良表彰を北海道知事から受ける程、優れた製品であったようだ。しかしながら、農業従事者が高度なマイコン制御を使いこなせず、ヒットはしなかった。1993年10月、サークル鉄工は来年夏からタマネギとジャガイモ収穫機市場へ参入することを決定した。これらの収穫機は、秋冬に生産して春に需要が集中するビート移植機とは異なり、需要が夏から秋に集中する。需要の集中時期の異なる製品を生産することで、工場の生産効率を高める戦略であった。タマネギとジャガイモの収穫機は、1992年に解散した札幌の収穫機メーカーの元社員を採用し、短期間で開発したもので、他社の製品と比較して1日あたりの収穫面積を従来機の倍にした。高性能による差別化で挑んだが、年間販売台数は30〜40台程度で、ビート移植機に並ぶ主力製品にはまだなりえていない。開発期間が短かったことと、規模の経済性が見込みにくいことから部品は外注しており、利益率はビート移植機と比較して低いようである。農業機械における製品多角化戦略は、なかなか成果があがらなかったが、建築・設備工事関連の事業は順調であった。建築・設備工事事業の売上の比率は5割を超え、本業であった農業機械事業よりも売上が多い。需要の季節的集中がある農業機械の事業を補完するメリットも大きく、建築・設備工事事業は売上以上の貢献をサークル鉄工にしている。さらに、1998年11月、ログハウスの施工事業に新規参入を図った。施工時期を冬などに限定し、坪50万円と従来のログハウスの3割安で売り出したが、ログハウス自体の市場が小さいのか、売上はまだあまりない状況である。 一方、ビート移植機に関しての競争優位性を維持するために、1991年7月、最新のビート移植機STPシリーズを発売する。この新製品はマイコン制御で1人の苗供給者が2畦の植え付けができ、かっては30人でやっていた苗移植作業が4〜5人で可能になる。この製品も大幅な生産性の改善をもたらすもので、買い換え需要を喚起してヒットした。1995年6月には全自動でビートを植え付ける移植機「ロボットCAP-2」を開発し、320万円で発売した。人手では従来機の4〜5人から1人となり、究極の省力ビート移植機である。発売初年度は50台であったが、その後は100台以上の販売を記録する大ヒットとなった。その結果、ビート移植機市場では80%のシェアを獲得した。ビート移植機の部品は内製であり、利益率も高い。また、販売方法は、サークル鉄工が直接農家へ営業やアフターサービスをするものの、農業機械はホクレンを通して農家に販売するという、販売代金回収リスクが少ない方法を取っていた。こうすることで、資金回収のサイトは長いものの、資金回収の手間が省ける。ホクレンのような強力なネットワークを利用することで、サークル鉄工は開発、生産、マーケティングに集中するという戦略を採用できるのである。サークル鉄工は高い製品開発力を持ち、それを事業化する生産システムとビジネス・モデルを長期間にわたって築き上げた。同社の安定した業績は、それらの賜物といって良いであろう。
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